動物たちを拘束し、さらに手を加えて利用してきたことも事実です。
武部正美獣医師先生より貴重な論文をお寄せいただきました。ご参考いただけましたら幸いです。
『動物に対する人間の思い上がり』
自然(あるいは神)は、その意に適した生き物を適者生存と自然淘汰という原則の中で創造し、進化させてきました。ところがその反面、人間は自分たちだけのために、自然(あるいは神)の意に逆らって、動物たちを拘束し、さらに手を加えて利用してきたことも事実です。
例えば犬科の動物の場合を考えますと,オオカミをはじめジャッカルやコヨーテ、キツネなどにみられるあの姿格好は、ごく自然の形態であり、適者生存の結果の姿といえます。ところが,オオカミを先祖とする犬のなかには、人間によって手を加えられ余りにも変造された結果、先祖のオオカミとは全くと言ってよいほど似ても似つかぬ、かけ離れた姿格好になってしまった犬種が存在しています。このような犬種のなかには、人間による興味本位のお陰で、おかしな格好に変造されたがために、生まれながらにして身体的な不幸を強いられ、苦痛を味わわされている犬たちがいます。
敢えて譬えるとすれば、短頭種の代表であるブルドッグが挙げられます。頭が大きく、口吻(鼻先)が極めて短く(鼻がぺちゃんこで)、足の短いずんぐりした体形は、確かに愛嬌があり、思わず微笑んでしまう雰囲気はありますが、解剖学的あるいは形態学的な面からみますと様々な欠陥が示唆されています。頭が大きいために、自然分娩が難しく、殆どが帝王切開で生まれてきます。口吻が極めて短くなったがために、目の下など顔中に皺が多くなり、不潔になりやすくなります。また上顎が短くなったために、軟口蓋(口の中の上顎の奥にある柔らかい天井部分)が後退し、垂れ下がって気道を塞ぐ格好になります。つまり、空気の出入り口の前に分厚いカーテンがぶら下がっているようなものですから、呼吸がし難く、常に息苦しい生活を余儀なくされているわけです。その証拠に、ブルドッグをはじめ、短頭種は凄い鼾をかきます。まるで、隣の部屋に恰幅の良いオジサンが寝ているかのようです。また、犬は呼吸によって体温を調節します。体温で熱くなった呼気を外に出して、涼しい空気を体内に吸い込むというわけです。車でいえば、効率の悪い空冷式なのです。従って、このように呼吸がし難い犬は、体温調節がうまく働かず、暑い夏には熱中症になりやすいというわけです。
さらにまた、犬は匂いを嗅ぐのが大好きな動物なのですが、口吻が極めて短く、眼が前面に出ていますから、散歩中に草むらで匂いを嗅ぐ際に、道草の葉っぱの先端で眼をつっ突いて眼球を損傷することがよくあります。
このように難産で、呼吸がし難く、眼球を損傷しやすいなどの問題は、パグやフレンチ-ブルドッグ、ボストン-テリア、ペキニーズなど、その他の短頭種に共通して言える欠陥でもあります。
その他、垂れ目で、顔の皺の多いブラッド-ハウンドという種類は、「悲しげな風貌」を強調しようとする選択交配が行われてきたために、結膜炎の原因にもなる眼瞼外反症(あかんべーをしたような状態)が極めて頻繁に現れています。中国の犬であるチャウチャウは、あの菱形をしたつぶらな眼を強調せんがために、眼瞼が内側にまくれ込んでしまう、所謂眼瞼内反症が多く認められます。また全身の被毛が殆どないメキシカン-ヘアレスや全身皺だらけといってもよいシャーペイなどは、当然気温の変動に対応できなかったり、皮膚病になりやすかったりといった犬種であり、飼い主は必要以上に世話や配慮が要求されます。
いっぽう、猫は犬ほどには手を加えられてはいませんが、それでもよく見渡すと犬の短頭種に似たペキニーズタイプ(鼻がぺちゃんこ)の猫がいます。例えば、エキゾティックという種類やペルシャ、ヒマラヤンのペキニーズタイプなどが挙げられます。彼らは犬と同じような不幸を味わわされています。特に眼の病気が多く、結膜炎や角膜炎、涙腺の狭窄などが認められます。その他、無毛の猫(スフィンクス)や耳が縮んだような形態の猫(スコッティシュフォールド)もいます。当然、無毛の猫は寒さや乾燥に弱く、気候の変動に対応できません。耳翼の縮んだ猫は耳道の疾患になりやすいという欠陥がみられますし、耳が塞がれた状態ですから、耳道の治療も大変です。
こうした生まれながらの身体的欠陥は、当然のこと自然が創造したものではなく、所詮人間の思い上がりによる勝手や面白半分が生み出した結果に過ぎません。このような種類を生み出した人間は勿論のこと、こうした種類の動物を飼いたいと考える飼い主側にも責任があるのではないでしょうか。そして、それ以上にこうした問題に対し声を大にして社会に訴えてこなかった我々獣医師にも重大な責任があると思います。
このような考え方は、30年以上前から欧米の一部の獣医師らによっても叫ばれていました。アメリカの獣医師であるフォックス博士やイギリスのフォーグル博士らは、その著書の中で、あるいは講演の中で、常に主張されておられましたが、なかなか大きなうねりや荒波にはなりませんでした。
ところが一昨年(2009年2月12日)、朝日新聞に英国ケンネルクラブがブルドッグの審査基準を健康重視に変更したという記事が載っていました。またNHKのテレビでも、その話題がニュースとして取り上げられておりました。将来はブルドッグの鼻が少し伸びて、足も少し長くなり、やや細めの体に------というわけです。ようやく先人たちや一部の心ある獣医師等の声が届いたかと嬉しくなるニュースでした。日本における反応や対応については、まだ耳にしておりませんが、英国ケンネルクラブと同じ歩調で進むことを期待し、心からそう願いたいものです。
犬でもう一つ、心しておかなければならない問題があります。最近、ミックス犬と称してペットショップで売られている犬たちがいます。例えば、チワワとミニチュアダックスを交配したチワックスと称する子犬や、マルチースとプードルを交配したマルプーと称する子犬などなど、純粋種犬同士の雑種です。前者の場合は、顔はチワワで体つきは短足のダックスといった姿恰好ですから、珍しい犬種ということになり、却って純粋種よりも高額で売られているといった事実もあります。これまでも間違ってうっかり交配してしまって----ということは、稀にありましたが、最近では面白半分といいますか、高く売れることもあって、こうしたミックス犬が多くみられるようになりました。
昔から遺伝学的には、純粋種同士の一代雑種には、優れた個体が認められるといわれておりました。有名な例として、ラバという馬科の動物がいます。雌の馬と雄のロバをかけあわせた一代雑種です。このラバは馬の良いところとロバの良いところを両方持ち合わせた優れた種類の動物と言われています。体が丈夫で病気をせず長命で、力も強くて使役に適し、しかも粗食に耐えるといった経済的にも優れた種類の動物なのです。ところが、その逆で、雄の馬と雌のロバをかけあわせた一代雑種にケッティという馬科の動物がいます。このケッティはラバとは違って、ひ弱で力も弱く使役に耐えず、粗食にも耐えられないという、ラバとは全く正反対の欠点だらけの動物なのだそうです。
犬では無思慮な交配によるミックス犬の欠点は、まだ見つかっていないように見受けられますが、そのうちケッティのようなひ弱な犬や遺伝的疾患をもつ犬が生まれる可能性は否定できません。心臓病の多いキャバリア・キングチャール・スパニエルとマルチースを交配すれば、それこそ心臓病だらけの子犬が産まれるかも知れません。やはり、無暗矢鱈に面白半分で一代雑種を生ませるのは止めた方がよいと思います。人間には珍しくて面白いかもしれませんが、犬にしてみれば苦しい一生を過さねばならないことにもなります。
さらに、もうひとつ考えなければならない問題に、野生動物をペットとして飼育するという状況があります。与えられた自然という環境の中で、幸せいっぱいに暮らしている野生の動物たちを、意味もなく自らの欲求を満たすがために捕え、あるいは購入し、敢えて不自然かつ不適切な環境の中で飼育されている動物たちです。例えば、以前に流行ったアライグマやプレイリードッグ、エリマキトカゲ、あるいは昨今話題になっているカミツキガメなど爬虫類が挙げられます。こうした動物たちは、不自然な生活を強いられるだけでなく、飽きられ、あるいは飼育不能になれば簡単に放棄され,益々もって不幸を味わわされることになります。勿論、生態系の破壊にも繋がることになります。単に珍しいから、面白いから、可愛いからといった自己の欲求を満たさんがために、こうした野生動物を飼うことは、動物虐待に通ずると同時に自然を破壊し、多くの人たちに迷惑を及ぼすことにもなります。
地球が誕生してから46億年。その6億年後には生命が誕生し、さまざまな進化を経て、
犬の先祖であるオオカミが誕生したのは約80万年前、猫の先祖であるリビアヤマネコの誕生は約13万年前。我々人間であるホモ・サピエンス・サピエンスの誕生は約10万年前と言われています。いずれにしても、我々人間はごく最近地球上に生まれた彼らの後輩に過ぎないのです。
そのような中で、自然(あるいは神)は、我々人間に先輩である動物たちを与えてくれました。そして、この動物たちは我々人間に様々なものを提供してくれます。犬や猫のように安らぎや楽しみや生きがいを与えてくれる動物もいます。障害を持つ方々の目や耳あるいは足の代わりになってくれる動物もいます。またいっぽうでは、我々の貴重なタンパク源や脂肪源になってくれる動物もいます。なかには医学の発展のために犠牲になってくれる動物もいます。こうした生きようとする尊い命に囲まれて生きているのが、我々人間なのです。このような動物たちに感謝すると同時に、今一度原点に戻って、あらゆる面から動物に対する思い上がりを反省し、考え直す時代にあるのではないでしょうか。
『我々は生きようとする生命に囲まれた、生きようとする生命である。地球のすべての生命に連携している生命なのである。』
『あなたの成し得る少しで結構です。人であろうと動物であろうと、生き物から苦痛や悲嘆や不安を取り除くことができれば。生命を維持し幸福に貢献すること、それこそが唯一の「善」なのです。』 アルベルト シュヴァイツァー
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